旧吉田家住宅主屋(県)
吉田家住宅の歴史
吉田家住宅は、江戸時代に仙台藩領気仙郡(現在の陸前高田市、住田町、大船渡市、釜石市唐丹)の24箇村を治めていた大肝入吉田家が、享和2年(1802)に気仙郡の御郡棟梁を務めた出入りの大工、今泉村の七五郎に建てさせた住宅です。後に「大庄屋」と呼ばれ現在まで市民に親しまれています。
主屋は、東側の表門側に座敷3室を設け、北側には広い土間部の御臺所があり、それらの間を広い居間部でつないだ大規模な茅葺の建物でした。
敷地内には土蔵、味噌蔵をはじめとする附属屋や庭園等があり、周辺のまち並みと合わせ今泉地区の歴史文化を現代に伝える貴重な財産として大切に保存されてきました。
藩政期、幕府の巡見使や藩主の視察の際には、宿所として使用されたことが記録に残っていて、その対応も滞りがないよう細部まで十分に考慮して計画された住宅であったと考えられています。
旧仙台藩内においてこの種の建物の多くが解体されている中、建築年代や大工棟梁の名、部分的ではあるものの藩政期の使われ方が明らかとなっている吉田家住宅は、仙台藩の地方支配を物語る数少ない遺構であり極めて貴重であるとして、平成18年9月26日、主屋、土蔵、味噌蔵、納屋(長屋)の1件4棟が「岩手県指定有形文化財(建造物)」に指定されました。
その後東日本大震災津波により全壊してしまいましたが、調査の結果、被災後の部材残存率等を踏まえて、土蔵、味噌蔵、納屋(長屋)の附属屋3棟は滅失と判断され、平成30年12月7日に主屋1棟のみを県の文化財として指定継続することとし、その名称も「旧吉田家住宅主屋」に変更されました。
大肝入とは
各村肝入などの郡内諸役人の監督を行い、徴税や簡易裁判を担った地方役人における最上位の職です。
元和6年(1620)に仙台藩の藩祖伊達政宗により、初代吉田宇右衛門(筑後)が気仙郡大肝入に任命されたという記録が残っています。
吉田家の近くには代官所が設けられ代官が配置されるとともに、足軽鉄砲隊を配備し南部藩境および沿岸の警備など治安維持の任に当たっており、当時の今泉が気仙郡の政治の中心であったことが窺えます。
津波による被害
平成23年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震が引き起こした大津波により吉田家住宅は全壊し、座敷廻りは屋敷の西側に約100メートル、茅葺屋根は諏訪神社を回った旧気仙小学校側に約300メートル流出しました。
土蔵や味噌蔵などは屋敷の西側に流出し、流された跡地には近在の建物の部材が散在していました。
復旧作業の様子
被災直後から、吉田家当主と吉田家住宅の復旧を願う地域住民の皆さんが部材の回収に奔走しました。その後、岩手県立博物館等の協力のもと残存部材は可能な限り回収され、その数は1,000本を超えて全体の6割程度となりました。
度重なる調査の結果、これらの部材を活用して建物を復旧することが可能と判断し、多くの専門機関や関係者の支援を得ながら、現在も復旧作業を進めています。
主屋の完成は、令和6年度末を予定しています。
最新情報は、下記リンクよりご覧ください。
岩手県指定有形文化財 旧吉田家住宅主屋復旧の歩み(YouTube)
旧吉田家住宅主屋の復旧イメージ
※実際の設計とは異なります。
ご寄附のお願い
旧吉田家住宅主屋の復旧にあたりましては、これまで多くの方々からのご支援・ご協力とご寄附を賜わり心より感謝申し上げます。
旧吉田家住宅主屋の復旧事業は、全壊した建物を単に再現するということではなく、津波で被災した部材を用いて行われます。このことは世界に例を見ず、部材の回収から使用箇所の特定、洗浄、補強、代替となる部材の製作などに膨大な時間と作業を必要とします。
令和6年度内の完成を目指し一連の事業を進めておりますので、引き続き皆様からの温かいご寄附をお願いいたします。
主屋の完成後は、広く皆様に愛され、気軽にご利用いただけるよう活用のあり方についても検討を始めています。
活用メニューの7をお選びください。
旧吉田家住宅主屋復旧事業に係る直接のご寄附は、教育委員会管理課文化財係へご連絡ください。
更新日:2023年06月05日